エノキダケイコの日常

映画、本、旅行のブログを毎日楽しそうに書いているエノキダケイコの、それ以外の日常生活やお知らせを書くブログ。どれだけ書けば気が済むんだ!?

NHK交響楽団「ベートーヴェン 第九演奏会」@NHKホール 2022.12.25

クリスマスに、NHKホールに、N響「第九」を聴きに行くのって、なんか王道な感じがすごくしませんか?私はもうこのまま天寿を全うしてしまうんじゃないか、というくらい大トリ感すごいです。

渋谷で10年も働いてたし、海外に行くとけっこうクラシックも聴くのに、自分でチケット買って行ったことはほとんどなかった・・・。やっぱり一度行ってみないと、と思って思い立ってみたのです。

指揮は井上道義、ソロはバスが、先日の「ボリス・ゴドゥノフ」でワルい高僧を堂々と演じていた、ジョージア出身のゴデルジ・ジャネリーゼ。テノールはドイツからベンヤミン・ブルンス。メゾソプラノ藤村実穂子、ソプラノはドイツからクリスティーナ・ランツハマーというインターナショナルな方々。合唱は新国立劇場合唱団と東京オペラシンガーズのみなさん。

ステージ全体が俯瞰できる3階席だけど、人の顔までは見えないので、先日買ったオペラグラスを持参。体を左右に大きく動かしながら全身で演奏するオーボエ奏者、どっしりと安定感のある黒いドレスのコントラバス、出番を待ち構えて待ち構えてそーっとなでるように叩くバスドラム・・・細部が面白くてたまりません。

生演奏でストリングスを聴くと、どうしてこれほどの技能の演者たちが、太い1つの楽器を全員で奏でるように、音を合わせられるんだろう、と胸を突かれるんだ。生のバイオリンを聴くのは初めてではないのに、いつも心が裸になったように感じて、そこに到達するまでの大変な道のりが迫ってきて、なんだか涙が出そうになる。

音楽ってすごい。世界遺産の建築物みたいに、人間が作りだしたものの最高峰だな。オペラや歌のない演劇、バレエとかもそう。絵画とかは「人類が」というより一人の人の特性によるもののように思えるので、力を合わせて年月をかけて構築するものとはまた違う。

今日もこんなによいものを見せてもらえて、作った方々(ベートーベン含む)と神様に感謝です。

 

雪組公演「蒼穹の昴」@東京宝塚劇場

久々に友人から誘ってもらえたので、日比谷に出向いてまいりました。チケット高い・・・でもこれほどの能力と技能のある出演者が大勢、しかもオーケストラの生演奏つき、と考えるとオペラより割安。

以前花組の「元禄バロックロック」を見たとき、とにかく衣装が可愛くて美しくて!日本の伝統的な着物を自由にカラフルにアレンジしていて、素晴らしいクリエイティビティでした。舞台美術の一部として出演者や音楽を巻き込んで、新しい”スチームパンク”の世界を創り出していました。

その印象が強かったので、今度は昔の中国が舞台ときいて、衣装にものすごく期待して行ったのですが・・・期待以上でした。みごとな刺繍をほどこした”胸当て”、体の線に沿って流れるチャイナドレス。ドレスの下は踊りやすいたっぷりしたフレアスカートやパンツになっていて、動きにつれてまた優雅に波打つんです。衣装も含めた美術だけでも価値がある舞台で、プログラムは写真集としてずっと保存しようと思います。

やっと内容に触れますと、原作は言わずと知れた浅田次郎の「蒼穹の昴」なので定評があります。で、それをどう料理して宝塚の舞台にするのか?長大で複雑な物語をどうわかりやすくするか、どう宝塚らしくロマンチックに仕上げるか。原作を読んでないのですが、おおむね私にもストーリーが理解できたし、登場人物たちの行動にも説得力が感じられました。よくこんなにまとめたなぁと思ってプログラムを見ると、演出家はとても若い人で、もともと浅田次郎の熱心なファンなんですね。だから理解が深いのか。・・・そんなもろもろの相乗効果で、楽しめる豊かな作品になっていたと思います。

それと、今回はお芝居のあとの独立した「レビュー」がなくて、この物語の大団円を表現したようなダンスがあったのですが、また別の衣装です。男性役の人たちが羽織った、刺繍の入った茶色の紗のガウンや、女性役の人たちが着ていた白地に群青色の模様のドレスの首から腰への太いライン(景徳鎮の陶磁器を模したらしい)など、こちらも目を奪われる美しさでした。

もしかして・・・フィナーレのダチョウの羽の巨大なつくりものがなければ、こんなに衣装にお金をかけられるのかしら・・・

(すみません、宝塚ぜんぜん良く知らないので、感覚だけで適当なことばかり書いてしまいました)

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2022/soukyunosubaru/index.html

ムソルグスキー作・マリウシュ・トレリンスキ演出「ボリス・ゴドゥノフ」@新国立劇場

オペラを通しでちゃんと見るのって人生何回目だろう。5回は見てないよな。という初心者です。原作も読んでいません。という前提でお読みください。

新国立劇場、近くに10年以上住んでるのに中に入ったことなかったので、先日初めて小劇場でお芝居を見て、「劇場」のあの雰囲気にうっとりとしてきたところ。でもやっぱり新国立劇場の真骨頂はこの大劇場ですね。幕間にスパークリングワインが飲めたりもして、なんとも素敵です。もう少しオペラの基礎体力をつけてから、私も幕間バルをそのうち経験してみたいです。(今はプログラム読むのに大忙し)

あえて前提知識ゼロで見てみました。しかも4階席。フレームが光っている立方体がごーっと音を立てて動いて、その中の人々や風景が内容に合わせて移り変わっていくの面白いですね。ごーっていう音がうるさい気もするけど、それを気にしないのがロシア的なんだろうか。で、ストーリーは、ボリス・ゴドゥノフってのは大変悪い領主で、最後は人民(というよりみんなスーツ着てるので官僚たちにも見える)に血まつりにあげられるという理解でよいですか?かなり障害の重い子どもが一人、どうやらすでに亡くなった子どもが一人。子どもたちに対する思いが重すぎて政治どころではない人です。昔はよい領主だったんだろうか。と思うと、スーパースターすぎて息子、娘をスポイルしてしまった過去のスターたちのことを思い出したりします。ボリスは極悪人とは描かれず、心の弱さに打ち勝てなかった男というふうです。

それにしてもワインの「おり」のような濃い血のりがすごい、怖かったです。殺された13人の子どもたちもけっこうショックだけど、最後の「血まつり」はもう映画でいえば「ミッドサマー」や「ウィッカーマン」のように怖い。そういう部分があったからか、このオペラは私には「オペラ」という特定の音楽芸術というより映画やお芝居の一種と感じられました。なので、演出が強すぎるとも、立方体の動きがうるさいとも特に思わず、そういう演出なんだなと思います。むしろ、普段毎日のように映画ばかり見ていて、クラシック音楽にもオペラにも縁のない私みたいな者こそ、初めてちゃんと見るオペラとして面白いかもしれません。

子役や主にコーラスを歌っていた方々を含めて、キャストの多さにも驚きました。海外からのキャストの数は少ないけど、どこの人かは見ていて全然気になりません。素晴らしいオーケストラの演奏、聞きほれてしまう美しい歌声、個性的で一本芯の通った演出、自然でゴージャスな演技。本物の、一流の芸術に触れると、たくさんの方々が人間の粋を集めて力いっぱいもてなしてくださっているように思えて、すごく幸せな気分になります。

オペラ苦手かも、と少し心配だったけど、行ってみてよかったです。また他の演目でチケット買ってみようと思います。

トム・ストッパード作・小川絵梨子演出「レオポルトシュタット」@新国立劇場

ガラスの動物園」をいい席で見たくて新国立劇場の会員になったので、他の舞台も見てみようと思って、二階席最前列の席を買って千秋楽を見てきました。

「レオポルトシュタット」って語感がなんともゾワゾワする・・・。ドイツ語っぽい緊張感とクールさがあり、整然とした語感。内容はオーストリアユダヤ系の家族が第二次大戦前後に翻弄され、散り散りになっていく物語なんだけど、整然としてクールな美しさのある舞台でした。

舞台中央付近にグランドピアノ、手前に10人くらい座れる大きなテーブル、さらに前の左側、中央、右側で人々が語り合っていて、右奥には(間違えててっぺんに「ダビデの星」を取り付けた)クリスマスツリー・・・と、広がりがあって見どころの多い舞台。A席だけど、二階席一列目から全体を俯瞰できて良かったです。

原作のトム・ストッパードの自伝的作品らしく、彼は劇中のレオと言う少年と同じくイギリスへ移住しています。劇中、彼が祖国に残した親戚のうち、戦後に再会したわずかな2人が口々にレオを責める場面があります。これはストッパードの自責の物語なのかな。創作を仕事にした人の多くは、いつか自分が抱えてきたものの集大成を発表せずにいられないのでしょうか。

賑やかな大家族の時間が、最後の場面では3人だけで、昔の家にはもう何も残っていません。幕が下りてから出演者全員が再登場すると、初めて涙があふれてきました。「ああよかった、みんな生きてた」みたいな本能的な安心感。これが、舞台にはあるけど映画にはない。だから昔の映画のなかには、悲劇的な終わり方のあとに唐突にフィクショナルな大団円が演出されることがあるのかも、と思いました。

このあとオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」のチケットを購入済、バレエ「コッペリア」が抽選待ち。一生に一度の文化的生活中だな私・・・。

イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出「ガラスの動物園」@新国立劇場

2020年に来るはずだった海外招聘公演、2回延期されてやっと実現したとのこと。実は私は近くに住んでいながら、かつ何年もユペールせんぱいの映画を追っかけていながら、新国立劇場でこの公演が行われると知ったのは先行予約開始の3週間前。急いで「友の会」に入会してチケットを確保しました。大枚はたいてS席を2日間押さえたかいあって、1階の前から3列目、ほぼ真ん中に近い素晴らしい席。10/2は出演者4人揃ってアフタートークも!

イザベル・ユペールせが演じる役はいつも、絶対仲良くなれないクセもアクも強い中年女だ。このお芝居でも子供たちに、明るく気丈に自分を押し付けて疲弊させている母だ。徹頭徹尾ビッチ。予想通りだけど、すぐ目の前の生演技なので圧倒されます。こわい。そして浮いている。誰ともまったく交差しない、自意識のかたまりを演じ切ることにまったくためらいはない。その覚悟。

娘ローラを演じたジュスティーヌ・バシュレの演技もすごい。障害をもち、繊細でうまく生きられない女性の、子どものような感情の起伏。小動物みたいに弟やジムに飛びついたり、丸くなって黙る。泣きわめくとかひっかくとかの演技はしないで、ひたすら内向する。

息子トムを演じたのはアントワーヌ・レナール。「BPM」でHIVポジティブ活動団体の優等生的なリーダー役を演じた彼です。いまおそらく37歳。あの映画から5年経って、現在の生活に倦んで最後の挑戦を遂げようとする、あまり若くない青年の役がはまっています。

シリル・ゲイユの演じたジムの野心と他人に対する共感力も説得力があった。彼一人が黒人であることは、アメリカのお芝居をフランス語で演じてることと同様、自然なスパイスのように効いている。

このお芝居の出演者4人とも、演技に対してすごく誠実な、舞台に自分を捧げているような真摯さを感じました。その度合いが揃ってる。フランスの演劇界って充実してるんだなぁ。

一家の父の不在は、毛足の長いぬいぐるみの表面みたいな素材に覆われた家の壁面に、指で描いたたくさんの男の顏で表されてたのかな。

公演2日目に見たときは、予習をあえてしなかったこともあって、ユペールせんぱいに圧倒されつつ、おずおずと筋を追い、舞台の迫力に感動したのですが、最終日に見たときは筋や演出が頭に入っています。ユペールせんぱいにも、もう前ほど圧倒されません。むしろローラの気持ちに入り込んで、トムの痛みを感じて、ジムの戸惑いに共感して、一緒に苦しくなります。母アマンダも痛々しい。それに、動物園のガラスたちが花火みたいにはかなく思えて、終盤に向けて涙が止まらなくなってしまった。

角の折れた一角獣は「私を、今日のことを忘れないで」というローラの祈りかな。ジムをこの先ずっと見つめ続けて、戸惑わせ続けるんだろうか。ノンフィクションではないのに、原作者が込めた感情がリアルで、人間って複雑で何も思い通りにいかないけど愛しい、という気持ちでいっぱいになります。

すごく良かったなぁ。気づいて、体験できて本当に良かったです。感謝。

TBスタジオ・Nプロジェクト共同企画「根っこ」

お芝居を見てきたので感想書いてみる。

著名劇団に所属する俳優さんたちが、少人数で作り上げた舞台。知り合いの関係でときどきお邪魔しますが、毎回、普通の人たちの日常に何かがきっかけで渦が起こる、こじんまりとしているけど不思議と心の中でカチッと音がするような印象深いお芝居です。

今回の「根っこ」は原題「Roots」、イギリスのアーノルド・ウェスカーという脚本家が1958年に書いた3幕の舞台です。人名や地名や職業などの設定も原作のまま。

昔からある作品なので結末にも触れますが、見たくない方は、どうぞこのあとは読まずにページを閉じていただけますよう…。

舞台はロンドンから遠い田舎町で、中心となる家族を構成するのは、地味な生活を送っている老夫婦、娘夫婦と息子夫婦とロンドンで働いている唯一都会的な末っ子。この末っ子がロンドンで付き合っている男がユダヤ人で「ソーシャリスト」と言ってますがコテコテの意識高い理屈派。東大の講堂で三島由紀夫と張り合ってたような、令和の世にはもはや現存しないタイプ。ただし彼は登場しません。彼に感化されて、よくわからないイデオロギーに染まった末っ子が、彼を実家に招待して、到着前になんとか田舎っぽさや泥臭さを隠そうとしますが、あっというまにほころびる。最後、彼がもう来ないことがわかって末っ子は泣き崩れるのですが、そのときの彼女の演説は「プチソーシャリスト」としての目覚めに満ちた意識高すぎる、家庭ではウザいやつに化しています。しびれを切らして、現れなかった彼氏のために作ったごちそうを食べ始める家族。

「この結末、笑っていいんだよね?」と思わずつぶやいてしまった。脚本家の意図は、意識高い娘に寄り添おうとしたのか、それとも市井の人々のおおらかさの勝ちなのか。

脚本家ウェスカーはイギリスのユダヤ人コミュニティで生まれ育ったコミュニストであり、投獄経験もある反原発活動家だった、と英語のWikipediaに書いてあって、めっちゃ左で真っ赤な人でした。でもなんとなく、こぶしを振り上げてがなり立てる自分を笑うような感じもあって、やっぱり普通の人の普通の暮らしが大切だよね、という草の根的な感覚も大事にした人なんじゃないのかな~。

進歩的な思想を嬉々として語る末っ子が、どこか「キューポラのある街」の吉永小百合と重なりました。(ほぼ同時期にそれぞれの原作が書かれてます)

主役の末っ子は松本祐華、近所の愛され老人は番藤松五郎、優しい姉に山内理沙、末っ子と始終どなり合っている母に華岡ちさ、全員は書ききれませんが、自然かつ熱の感じられる、親密な舞台でした。

小舞台を見に行かなかったら出会えなかった、興味深い作品。こういうの映画化とかしないのかな。今はスマホで撮影できたりするから、何か違う形でも作ってみたりしたら面白いかも…なんて思ったりしました。

追い焙煎という実験  シリーズ3/4

強めの火で、見た目は「いい具合」に焙煎できた豆が意外とマズかった件で、試しに「再焙煎」というか「追い焙煎」をやってみました。一度焙煎が終わった豆を、再加熱するということです。生焼けなんだから焼き直してみよう、という。

豆は焙煎しただけで挽いてないので再加熱できるっちゃできます。網に戻して、前からやってる「とろ火」で10分追加で焙煎してみました。

見た目はこうです。

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追い焙煎前

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10分間追い焙煎後。

見た目は、ちょっとツヤが出たねというくらいでほとんど変わりません。

味は?

…さっそく、アツアツの豆を挽いて淹れてみました。…多少まろやかになりましたね。多少です。10分ぶんだけ、生焼けっぽいエグミがなくなって飲みやすくなったけど、完璧!という感じでもなく、まさに10分ぶんという感じ。一度色がついてしまっているぶん、このあと何分くらい焙煎すれば「ちょうどいい」状態に至るのか、見た目でわかりづらい(私には見分けられない)ので、これ以上のチャレンジはやめておきます。が、やはり、豆のおいしさは焼き色じゃないですね。じっくり中まで火を通すのがベストで、その方法はまだまだ試行中といったところです。

いやー、とろ火で下手すると40分も1時間もひたすら網を振り続けるという、自己流のカッコ悪い焙煎のほうが味が美味しいというのが今のところの結論で、二の腕が細くなるどころか、力士のように霜降りの立派な太さが育ちつつあるのが気になります。。。

次回、シリーズ最終回は「初心に返ってとろ火で焙煎」について実験してみます。